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法律論文の書き方

Ⅰ はじめに

論文を書くためには、一定の技術を要する。そのような技術の習得は司法試験の合格のためには不可欠である。更に、法律実務においても、自分の考え方を主張する手段として、将来にわたって重要である。このような論文を書くことの目的は、抽象的には自己の主張(または一定の内容)を相手方に明瞭に、誤解なく、素早く伝えるという点に集約される。

このようなことは、日本語を母国語としている者にとっては、格別の技術と呼ぶほどのものではないように見える。しかし、現実には日本語を話すことができることと、論文を書くこととの間には大きな隔たりがある。特に、試験の答案あるいは相手が論文を読む義務を負わない文書のときには、「良く読めば、どこかに書いてある」ということは、書いてないに等しい。

論文の書き方を知ることは、勉強の仕方を知ることに直結する。確かに、司法試験の勉学にあたって、論文を書くことは、第一義的には論文試験の書き方にとって意味があることは言うまでもない。しかし、実はそれに止まらない。論文の書き方を知ることは、直ちに何を記憶すべきか、教科書をどのように読むべきかという勉強方法につながる。

なぜなら、司法試験においては、答案に書いてない事項は採点されないのであるから、ある問題点を勉強するにあたっては答案に再現できるように勉強することが肝要である。換言すると、書けるように覚えることが重要である。したがって、論文の書き方を知ることは短答式においても意義のあることである。

Ⅱ 基礎編 一 文法事項

1 テンとマルを必ず書く

長い文章では主語の後ろにテンを置くのが原則である。

これは日本語の文章における最低限の約束事である。

当然のように見えるが、実は意外に守られていない。

特に、テンはしばしば無視されているのが実情である。

2 文章には主語を必ず書く。

節にも原則として主語が必要である。

主語の存在は会話では省略されても構わないことが多い。それは、相手が分からなければ聞き直せば良いからである。

しかし、論文においては、対話は存在しない。したがって、主語が存在しない文章は致命的な欠陥をもっていることになる。

*省略が許されるのは「私」だけである。

*国語、英語の試験問題を思い出すべきである。

(他人の文章は外国語と同じである)

大学入試では文中の主語は何か、が問われたはずである。また、外国語を読むときに、主語が分かると文章の見当がついたことを思い出すべきである。他人にとっては、主語を把握することが文章理解の第一歩である。

3 長い文章(2行以上にわたる)を避ける。

長い文章は理解するのに時間がかかる。また、「これ」、「それ」等の代名詞を使うときには慎重に用いる。

*これについても国語、英語の試験問題を思い出すべきである。

大学入試では、「それ」とは何か、itは何を指すかが問われたはずである。

たとえば、「これは」にかえて、「この見解は」、「この権利は」というように、単語を付け加えることによって、何を指すかが明らかになる。

例:信義則とは「権利の行使・・・」ことを要求する法理である(民法1条2項)。

これは、具体的な事情のもとにおいて、期待される行為を裏切らないことが要求されるため一般的な要件は定立しづらいが判例上次のようなものが認められている。

*文章が長い。

修正 これは、具体的な事情のもとにおいて、期待される行為を裏切らないことが要求されるため、一般的な要件は定立しにくい。しかし、判例上次のようなものが認められている。

「これ」が何を指すか

「誰」が期待するのか

「判例」が基準を定立していれば、別に定立しにくいわけではない。

(「しづらい」という表現は文章では使用しない)

権利行使または義務の履行が信義則に違反するか否かの判定基準は、権利者または義務者が社会通念上期待される行為を実行したかどうかである。その判定は個別具体的な事情と密接に関連する。したがって、一般的な要件を定立することは困難である

しかし、判例によると次の基準が見られる。

*最初に「判定基準」を掲げ、次に要件の定立が困難であるとすることは矛盾している。

*しかも、判例が定立していれば、困難ではない。

(定立するまでに裁判官が苦労したことは問題ではない。それはすべての基準に共通である)

信義則は、権利濫用、公序良俗などとならんで、いわゆる一般条項である。

したがって、権利行使または義務の履行が信義則に違反するか否かの具体的な判定基準を設定することは元来困難である。これに関して学説は、権利者または義務者が社会通念上期待される行為を実行したかどうかを一応の基準としている。

しかし、社会通念が重要であることからも明らかなように、その判定は結局は個別具体的な事情と密接に関連せざるをえない。

たとえば、判例で問題となったものには、次のような事例がある。

4 「は」と「が」の使い方。

文章全体の主語を表す助詞は原則として「は」であり、「が」は原則として文節の中の主語である。

例:債務者債務を履行しない意思明確である場合にも、

なお催告必要であるというの判例である。

修正判例は、債務者が債務を履行しない意思が明確である場合にも、なお催告を要すると解している。

債務者に債務を履行する意思が明らかにない場合にも、催告を要するかどうかは問題である。判例は、このような場合であってもなお催告を要すると解している。

5 その他の文法事項
(1)単数と複数

予約は売買に見られる。   (単数)

予約は主として売買に見られる。(実質的に複数)

予約はもっぱら売買に見られる。(?)

予約は売買、請負等に見られる。(複数)

*「A」であると断定するときに、他に類似のものがあるかどうかを確認する。

*「等」を使用するときには、必ず「イ、ロ等」と最低限1個の例を挙げる。

(2)現在形(未来形)と過去形

要物契約ではしばしば「過去形」が重要である。

手付損倍戻しは、交付された手付に関する原則である。

消費貸借は貸し渡された金銭の返還である。

6 接続詞または類似の言葉

二つの文章を書いたときには、原則として常に接続詞または接続詞と同様の言葉が必要である。これによって二つの文章の論理関係を示す。

これに留意することは、単に文章をわかりやすくするだけではなく、自分が書こうとしている内容を自分で意識することができる。これは文章を書く上で最大の重要な留意点である。

前に述べた結論の理由を説明しているのか?

(なぜなら・・だからである)

前に述べた説を否定しているのか?

(しかし)

前に述べた内容を詳細に説明しているのか?

(すなわち)

前に述べた内容の具体例をあげているのか?

(たとえば)

(債務不履行による解除の要件)

例 民法の規定は「当事者の一方がその債務を履行しない場合」というだけだが、微妙な問題が多い。解除は、契約の廃棄であり、相手方にとって深刻な結果を生ずることがあるので、特に継続的契約においては、要件を制限的に解するのが妥当だからである。」
*民法は、解除の要件としては、「当事者の一方がその債務を履行」との見定めている。
しかし、これに関しては微妙な問題が多い。なぜなら、解除は、契約の廃棄であり、相手方にとって深刻な結果を生ずることがあるからである。したがって、特に継続的契約においては、解除の要件を制限的に解するのが妥当である。
例 損害賠償の範囲については民法416条に定めがある。この規定は、相当因果関係の概念に由来するとの立場もあるが首肯できない。すなわち、この説は、事実認定と法律問題を混同しているからである。416条の適用範囲は法律問題であり損害賠償の範囲は当事者の予見可能性によって決定されるとするのがその趣旨である。
例 損害賠償の範囲については民法416条に定めがある。この規定は、*損害賠償の範囲については、民法416条に定めがある。しかし、この規定の趣旨については争いがある(または「問題がある」)。すなわち、判例は、この規定が相当因果関係説を採用したものと解している。しかし、これには賛成することができない。なぜなら、相当因果関係説は、事実認定と法律問題とを混同しているからである。すなわち、416条は、損害賠償の範囲が当事者の予見可能性によって決定されるとしており、これは損害賠償の範囲が法律問題であることを示していることにほかならない。
*損害賠償の範囲については、民法416条に定めがある。しかし、この規定の趣旨については争いがある(または「問題がある」)。すなわち、判例は、この規定が相当因果関係説を採用したものと解している。しかし、これには賛成することができない。なぜなら、相当因果関係説は、事実認定と法律問題とを混同しているからである。すなわち、相当因果関係説では、原因行為と結果との間に「あれなければ、これなし」という条件関係があるかどうかという「事実的因果関係」とそのような事実的因果関係を前提として、その結果が損害賠償の範囲に含まれるかどうかという「保護範囲」とが区別されていない。しかし、前者は事実認定の問題であり、後者は価値判断を伴う、法律問題である。したがって、両者の混同は許されないと解する。なお、論理的な関係を示す言葉は、いわゆる接続詞のほかに、種々の言葉がある。このような論理関係を表現する言葉を自分で用意しておく必要がある。

a 接続詞

「しかし」「そして」「なぜなら、すなわち」「 しかるに」「 が」「 けれども」「つまり」「ただし」

b 接続詞ではないが、論理関係を示す言葉

たとえば、その理由は次の通りである、

「これに加えて」「(仮に)そうだとすると」「要するに」「その結果は」「その上」「更に」「
これに対して」「思うに」

7 留意を要する言葉

不必要に使ってはならない言葉がある。

たとえば次のような表現である。

「原則として」 :この表現では例外の存在が前提とされている。

「常に」    :例外が本当に存在しないか?

8 論理的に書く方法

論理的に書くことは、それほど難しいわけではない。

一定の方式を確立すれば良い。「文章を短く書くこと」は最初の、そして最大の留意事項である。自分でも理解できない、または理解しにくい文章は、他人には理解不可能である。

1 問題点を書く

(「これに関しては、学説の対立がある」)

2 原則

(または通説、判例)を書く。

(「先ず、これに関しては、・・と解する見解(学説)がある。そして、この見解が判例でもある」または、「先ず、これに関して通説・判例は、―――と解している」)

3 反対説を書く

(「これに対して――と解する見解もある」)

4 結論

(「思うに(私は))、これについてはA説が相当である、妥当である、適切であると考える」)

5 理由を書く。

(「その理由は―――である」)

「なぜなら、――――だからである」)

または、「その理由は第一に、―――であり、

第二に、―――であり」

または、「その理由は次の三点に求められる。

  1. ―――
  2. ―――
  3. ―――」

最後の表現方式=箇条書は表現方法としては最低の方法であるが、論理性の確保の上では大変便利な方法であり、あらゆる場合に応用できる。

たとえば、その理由としては次の三点がある。

  • その要件は、次の三点である。
  • その効果は、次の三点である。
  • その問題については次の二つの見解がある。

Ⅲ 応用編

論文構成の基本

論文の構成は原則として次の構成をとる。

  1. 問題の所在
  2. 学説・判例(=他人の考え方)
  3. 自説及びその理由
  4. 結論・まとめ

*この構成は論文全体の構成であるとともに、ある論文の中の部分の構成でもある。

*「小見出し」の必要性

2、3について、場合によっては1についても小見出しをつける。

最低1頁に1か所の小見出しをつける。これによって論文の骨子が明らかになる。また、論文を書き始めるに当たっては、別の用紙に1~4とそれぞれの内容の小見出しを書くことが最初の作業である。小見出しが完成すれば、論文は半分完成したに等しい。

事例問題の書き方

司法試験では原則として事例問題が出される。上記の基本構成は、事例問題では、次のような内容となる。

1 論点の指摘(問題の所在)

「これについては、X、Y、Zが問題となる」

(「これについては、その要件、効果が問題となる」

小見出し:「Xについて」、「Yについて」、「Zについて」

2 理論的展開(学説・判例)

「先ず、Xについては、次のような学説・判例の対立がある」

3 理論的展開に対する自説、その理由

「これについては、A説が相当であると解する。なせなら、…だからである」。

4 当該事案への自説の適用

「そうすると、本件においては、債権者には…の事実があるから、

…という要件を具備していると解される。したがって、その効果として前述のとおり、債権者は相手方に損害賠償を請求することができると解すべきことになる」

余裕があれば、別の説では事例に適用すると妥当な結論が得られないことにも言及する。

「ちなみに、A説によると、本件において債権者は要件Xを備えていないので、損害賠償を請求することができないことになる。このような結論が妥当性を欠くことは明らかであろう」

*事例問題について、いきなり当該事案の内容の検討を始めることは、以後の展開に支障をきたすことが多い。

*総論と各論とに分けて考えると書きやすい。総論:抽象的な学説(1~3が総論である)

各論:当該事例での議論(4)

総論と各論は論理的に合致していることを要する。したがって、総論を書くときには、

各論での結論が決定されていなければならない。

総論で先ずA説を採用し、各論はA説の適用である。この場合には、各論の目的は,A説の正当性を実証することにある。

5 なお、全ての論点について、先ず総論を書き、次いで、すべての論点について各論を書くべきか、それとも、論点ごとの総論、各論を書くべきかは、事例による。

書くべき内容について

何を書くべきかは、個々の問題に応じて異なることは当然である。しかし、次のように要約することは可能である。

1 論点の検討=要件、効果

(1)要件

(2)効果

*論点について学説・判例を説明すること、自説を述べることは、要するに要件・効果について述べることに他ならない。

*瑕疵担保責任の法的性質論なども結局は要件、効果の問題に帰着する。

*要件、効果以外に述べる必要があるのは、歴史程度である。

*制度の目的は、ある意見を採用する理由である。

最も、場合によっては最初に制度の目的、理由、趣旨を書き、理由の説明の箇所で、すでにのべた制度の目的などを引用することは可能である。

「…と解すべきである。なぜなら、このように解することが、既に述べた(前記の)制度の目的に合致するからである」)

2 自説の展開

(1)理由を付す。

自説には必ず理由を付することを要する。理由なき自説は素人論である。また、判決では絶対的上告理由である。これは裁判官としては絶対に避けなければならない。

(2)理由の要否の判定

書いているときには、しばしば理由を付すべき必要があるかどうか迷うことがある。その場合の基準は単純に次のものである。

「と解すべきである」、『と考えられる』という類の表現は自説を述べることを意味する。この場合には、常に、例外なく理由が必要である。

Ⅳ 勉学上の留意点

教科書は必ずしも自分が書きやすいようには、整理されていないので、教科書等を読むときに、自分が書く時に、書けるように読むことが重要である。それは要するに、自分が再現できる範囲、分量で、次の作業を行う(詳細に知ることが望ましように誤解されているが、自分で再現できない以上、試験では意味が無い。これは長時間勉強をしている受験生が陥りやすい落とし穴である)そのための最低限の前提として、基礎的な定義は暗記するしかない。基礎的な定義とは学説、判例上争いが無く、しかも条文からは判明しない事項で ある。

例えば、政務、意思表示、錯誤、公序良俗、瑕疵など。これらは記憶するしかない。その反面、条文から判明することは、記憶する必要がない。これらを前提としてのみ、論点について書くことができる。論点について知ることは次の作業を意味する。

先ず、

「判例・通説」「反対説」の結論を知ることが第一歩である。

次に、

「判例・通説の根拠」「反対説の根拠、理由」を知ることが課題である。

これによって、事例問題の書き方の1,2を書くことができる。

それでは、自説はどうするか。受験生は自説を持つべきではない。どのような結論をとるかは、その場で考え、最も合理的と思われるものを、考え出すしかない。迷ったら通説、判例という考え方もあろうが、あまり方針を固定しない方が良い。

Ⅴ まとめ

1 司法試験は困難な試験であることは言うまでも無い。それは、単に倍率が高いとか、競争が激しいという意味だけではない。より重要な理由は、法曹という仕事の性質上、高い学力、学識を要求されるからである。法曹の仕事は、人を死刑にすることもできるし、人の財産の全てを奪うこともできるものであり、このような職業は他にはない。

その意味では法曹は最も専門職としての性質を有している。しかし、法曹は、権力を持たないし、財産を持たないことが原則である。そうではないという指摘もあろうし、また、これらの目的のために法曹資格を獲得しようとしている人がいることも事実である。

しかし、そのような試みは多くの場合に失敗しているし、少なくともそれらは法曹の本来の目的ではない。理念的には法曹としての本来の地位を主張できるのは、論理の世界においてのみである。このために、その試験は論理の試験でなければならず、論理とは結局は言葉の世界の問題である。しかし、我々の現に生活している世界は、決して論理に基づいているわけではなく、我々は論理と無縁の生活をしている。司法試験の困難性は、このような論理を問題とすることにある。

2 司法試験の不合理性はしばしば指摘されるとおりである。その要点は、第一に、諸外国に比べて試験が難しすぎることである。しかし、試験が容易な国においては、合格後に現実の選抜が行われる。たとえば、ドイツでも、アメリカでも弁護士の多くは生活が困難であるのが実情である。入り口が広ければ、後でより困難な選抜がなされ、しかも、その選抜基準は筆記試験ほどの合理性を有するものではない。第二に、最低の合格者と最高の不合格者との間に学力の差異が無いのに、実力のある多数の者が不合格とされていることは、不合理であるという点である。

しかし、法律の基本的な発想は、世間に常にあるグレーゾーンを明確に判定するところに元来の使命がある。したがって、この考え方は採るべきではない。たとえば、権利はあるか、無いかの二者択一の問題である。時として、権利があるようにも見え、ないようにもみえるが、これを一方に判定しなければならないのが法曹の仕事である。また、最高裁の判決が、たとえ8対7でも、最終的な決定であることを思い起こすべきである。たとえ、それが不合理であったとしても、それに代わる合理的な制度を人類は見出してはいない。第三に、司法試験の内容が瑣末な事項に渡っているという点である。確かに、実務的には希にしか問題とならない事件あるいは理論が試験の対象とされることは事実である。

しかし、それは希にしか問題とならないに過ぎず、絶対に問題とならない事件ではない以上、試験としての合理性に問題がない。例えば、外科医にとっては、心臓手術は希にしか問題にならないとしても、医師の試験は決して盲腸手術だけを問題にするわけではない。法曹が専門職である以上、希な事件にも対応する能力が要求されるのは当然である。

3 司法試験は以上に見たように、容易な試験では無い。それが根本的に変更される見込みもない。しかし、合格のために格別の能力を要するわけではない。誰でも、努力さえすれば間違いなく合格する試験である。その異論のない証拠は、毎年500名以上の合格者を出していることである。これは毎年、数名しかいない日展の入選者になることにくらべれば、はるかに容易なことである。司法試験が論理の世界の問題である以上、格別の能力を要しないことは当然でもある。

そうだとすれば、合格に向かって地道に努力するしかない。決して我が国の受験生だけが特別な苦労をしているわけではない。

栗田哲男

注)本法律論文の書き方は、旧司法試験において丙案と呼ばれる制度が導入される以前の制度下で書かれたものです。大問起案という問題自体が大変に長いものとなっている現在の新司法試験下では、時間の制約上、多少、論文の書き方の修正が必要な場合もあると思います。しかし、ここに記載されていることの多くは、今なお、法律の本を読み、論文を書く上で、基本的重要事項であると考えます。

この「法律論文の書き方」は、
元立教大学教授の栗田哲男先生が、ある司法試験受験生にあてた私信の一部です。

論文の書き方について、丁寧に詳細にご指導下さっています。栗田先生の奥様と受信者の承諾を得て、紹介させていただきました。
栗田先生の主要論文として、平井宜雄先生との共著である「富喜丸事件の研究」(法協88巻1,2号)、「消費者取引における解除・損害賠償」(1985年、現代契約法大系4巻〔有斐閣〕所収)があります。

著書として、有斐閣Sシリーズ『民法Ⅲ』第2章、第3章。
先生は、建設請負契約に関する体系書に筆をおそろうとしていた矢先、49歳という若さで急逝されました。
栗田先生の学問的な仕事とそのお人柄については、平井宜雄先生が、『現代民法研究(1)請負契約』栗田哲男著(信山社発行)の序文に詳しくお書きになられています。